2014/07/31

イデアが動くようになる




>何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことでしょうか。


 2010年に Piggy さんが「大風呂敷」という掲示板に書かれた記事の一部を抜粋して、この blogger の記事にさせてもらってある。

http://sodokusha.blogspot.jp/2014/07/blog-post_24.html

 Piggy さんの記事は、英語で話すことができなかった人が、話し始めたことを報告して下さったものである。これこそが、いわゆる「英会話」を欲しがる人たちが欲しがっているものであろうけれど、それを可能にした「場」は、英会話学校でもなければ、学校制度の中の学校でもない。

 それは「一人の場=意識」以外のものではないのだ。
 付け足して言わせてもらえば、「一人の場=意識」を確保した人に、素読舎の方法が有効だったということだ。

 素読舎のレッスンは「一人の場=意識」で行うべきことを伝えるレッスンなのである。自分で練習するための方法を伝えるのである。

 レッスンの途中から、コーチに力をつけて「もらおう」という意識から抜け出てもらうようにしている。「してもらう」という意識ほど、語学の邪魔になるものはない。

 力というものは自分で自分につけるものなのだということを認識してもらう。それが素読舎のレッスンの眼目なのである。

 例えば、「言いながら書きながら思う」という練習は、練習方法を伝えることはできるが、その練習自体をレッスンで扱うことはできない。レッスン時間のほとんどは、「音づくり」と「イントネーションの自己決定力」の養成に費やされる。

 原理が「言いながら書きながら思う」であるような練習は、表面的な形が違っているだけのものなら、他にいくつもありうるだろう。まともな「音づくり」を一応済ませたレベルの口の動きを持った人なら、CDの英語の複製音声を使って、「真似ながら書きながら思う」もありうるし、同じ単語やフレーズを繰り返し再生させられるなら、「聞きながら書きながら思う」もありうる。パソコンのブラインドタッチができる人なら、「言いながら打ちながら思う」もありうる。

 肝心なことは、「身体化」という一語で間に合うのである。これは、生徒が自分でやるしかない。

 「英会話」能力を欲しがる人たちの多くが、英会話学校に通う。しかし、英会話学校に通って英語を話し始めた人に私は会ったことがない。英会話学校に通う前から多少はしゃべれた人が、英会話学校に通うことでもっとしゃべれるようになったという事例ならありうるだろう。英会話学校に払う金に見合うものを得るつもりなら、基体になるものを最初に持たなければならない。
 素読舎が伝えるのは、その基体の作り方なのである。

 「英会話、風邪じゃないからウツラナイ」と昔から言ってきた。(幼児は別である。幼児にはウツル。日常の生活言語が日本語である場合、このウツッタエーゴは害になる。私は何人もの幼児英会話を経た子供をレッスンしたが、日本語の語感がにぶいと感じる。)

 幼児英会話はとことん叩いたことがあるから、いずれこの blogger にも転写する。大人相手の英会話学校の話に戻す。

 英会話学校の初心者用のクラスを想定してみればいい。
 教室というところは、英語の「磁場」ではないということが見て取れる。
 生徒たちの意識は日本語とともに動いている。先生一人だけが、意識が英語とともに動いている。その場は、日本語を封じられた「日本語の磁場」でしかない。先生という個人が、一人だけ英語をしゃべっても、「英語の磁場」は形成できない。

 原理的に英会話学校には「英語の磁場」は形成できないということは、私の磁場論を読まれた人にはわかる。わかれば、英会話学校になんか通うことはない。

 多くの人が英会話学校に通っているんだということは、例えば NOVA という英会話学校が、「駅前留学」とかうまいことを言い、駅前の一等地に学校を置き続けることができたということでわかる。
 教室は「磁場」にはなれないのに、「駅前留学」というキャッチで、NOVA が入っているビルが「磁場」であるかのように幻想させる詐術。その詐術の別名が英会話学校なのである。 NOVA に限ったことではない。

 素読舎は「英会話」などということはしない。そんなものは教えてどうにかなるものではない。

 音に関して、単語に関して、語法に関して、文に関して、それを扱う方法は伝える。音に関してだけでも、その説明法は素読舎以外にはないものだ。私がどこかから習ってきたものではないからである。ほぼ40年かけて自前で作ってきたものだからだ。

 レッスンを通じて得た方法を「自分一人の練習でどんどん使う」ということは生徒が自分でやるべきこととしてある。どんどん使って練習した結果、英語を話し始める人がいるだけのことである。

 量に関しては、「語学の90%以上が自分ですること」と私は言い続けてきた。素読舎が伝えることができるのは、10%程度なのである。

 しかし、この10%があるとないとでは、残りの90%の質ががらりと変わってしまうということはある。

 それでも、例えば、毎週一回30分のレッスンを、5年続けたとしても、10年続けたとしても、90%以上は「自分がすること」としてあることに変わりはない。

 英語をしゃべれなかった人がしゃべり始めたというのが、 Piggy さんに起こったことである。これは、Piggy さんが自分でやるべきことをやったから起こったことなのだ。素読舎の方法が何をやるべきなのかを伝えることができたから起こったことであるとも言えるが、Piggy さんが90%以上を「自分でやる」のだということがわからない人だったら、英語をしゃべり始めるということは起こらなかった。

>話す機会からは逃げ回っていました。逃げるのに疲れて英会話教室でプライベートレッスンを6年くらい前に半年くらい受けましたが、何かが身に付いたという実感はまったくなく、敗北感だけでした。

 「自分でやる」ということに関しては 素読舎をみつけ出してくれる前にも Piggy さんは自分でやられていたのだと思う。英会話教室の高価なプライベートレッスンを使っておられた時でも、レッスンの場に身を置くだけでなく、自分で練習することはやられていただろうと推測する。
 素読舎のレッスンを使われた時に、自分一人でやった練習がレッスン時に反映された様子からそう推測しているのである。

 いずれにせよ、英会話学校を使うことでは Piggy さんはしゃべれるようにはならなかったのだ。はっきりとぶしつけに言わせてもらえば、無駄金であった。このことは Piggy さん一人だけに起こったことではない。英会話学校を使う人のほとんどすべての人に起こったことであり、今も起こっていることである。(人々が役に立たないと知り始めたので、英会話学校は今では見捨てられつつあるように思う。)

 「自分でやること」と素読舎の方法のどちらが欠けても、英語でしゃべり始めることは Piggy さんに起こらなかったとまでは言えるだろう。とにかく、「自分でやること」をやらないと、金も方法も「宝の持ち腐れ」あるいは、「持ち腐れの宝」になる。

 Piggy さんは、10%未満+90%以上とは感じないかもしれない。素読舎の方法がやったことが40%、自分がやったことが60%くらいに感じるのかもしれない。もしもそうであるなら、それは Piggy さんが素読舎の方法で練習しはじめる前に、(知識的には)大学受験レベルの英語をものにしてあったせいである。

 私は学校の英語とか、受験制度内の英語とかいうものを勘定に入れていない。素読舎の方法の眼目を見抜き、素読舎から得るものを10%程度だと認識し、90%以上の「自分がやるべきこと」をやれば、学校なんかなくても英語はものになると勘定している。

 学校というものを勘定から外せば、「自分でやること」は90%以上になる。

 自分がやるべきことを一人でやることには金はかからない。「言いながら書きながら思う」ということは、ボールペンと紙さえあればできるので、200円もあればかなりの練習ができる。
 そういう金のかからない練習をちゃんとやらなければ、日本在住のままで英語をしゃべり始めるのにかかる金は数百万で足りるかどうかわからない。一千万を越えるかもしれない。たいがいの高級車よりも高くなると私は考えている。一千万を越えても、しゃべり出さない人はしゃべり出さない。

 「日本在住のまま」とはそういうことだ。

 いや、そんなことより、時間が足りない。一千万以上を払っている頃には寿命が尽きている。

 「今やってることを続けても、しゃべり始めるまでには300年くらいかかりますね」と私は生徒に言うことがある。レッスンを「受けているだけ」で、いつまでたっても自分からやり出すことがない生徒にそう言うのである。実は300年で足りるかどうかはわからない。500年かもしれない。ともかく100年や200年ではないとはわかる。

 誰も300年以上も生きてはいない。だから、生徒は私が冗談を言っていると思うのかどうか、たいていは笑うのである。

 私は冗談を言っているのではない。私はそれを言う時に、笑いながら言うことはない。

 受験英語を勘定に入れろと言われれば、英語をしゃべり始めるのに必要な蓄積の20%から60%を占めるかもしれない。しかし「音づくり」も「イメージ化」も経ていない英語だから、受験英語が邪魔をする場面は多いのである。
 音に関しては、ほとんどすべての生徒が、元から作りなおさなければならない。(英検受験や TOEIC 受験も同じである。)

 学校英語、受験英語、英検英語、TOEIC英語から、邪魔され減殺されるパーセンテージを勘定に入れれば、10%から40%は受験英語で間に合うというくらいなものだろうではないか。口の動きの平板さを立体的なものにする基礎工事まで勘定に入れれば、もっと少ないかもしれない。

 「やりなおし英語」はたいていは受験英語以後のものだ。二度手間であっても、二度手間をやるしかない。減殺されるのは仕方がない。生徒がもうそれを生きてしまったのだから、仕方がないのである。

 「音づくり」に関しては、年齢も関係がある。歳をとればとるほど、口は日本語音用にしか動かなくなってくる。あるいは、身に染みついたカタカナ英語音用にしか動かなくなってくる。

 素読舎の方法をみつけてもらうなら、早いほうがいい。
 (しかし、小学校4年からしか受け付けていない。それまでは日本語の語感が養われるべき期間だと考えている。私は自分の孫が小学1年生の時に、素読を原理とした方法のみでレッスンをやってみた。孫は実験材料だった。それはそこそこうまくいったが、私の語学論にある「からっぽの電池でいい」「種のまま持たせる」「芽を出させてはいけない」というような根本的なことを理解している親の子供しか、小学校低学年の子供を受け付けることはできない。この期間は、文字に目をなじませ、音に口をなじませるだけでいいのだということを理解していない親の子供を受け付けたって何の評価もしてもらえない。それだけでなく、「種のまま持たせる」ことが子供の日本語を守っているのだということすらわかってもらえない。そういう親たちは、素読舎などに見向きもせず、そこらの幼児英会話教室や小学生向け英会話教室に子供を通わせたりするだろう。でかい損をするぜとだけ言っておく。日本語の語感が壊されたら、その子供の一生の損になるのだ。)

 本題に戻る。
 いろんな要素がからむが、受験英語を経ていない英語は、やはり「自分でやること」が90%以上だと考えるべきだということである。

 もちろん大学受験レベルの英語をものにしてあれば、「やりなおし英語」には有利だ。それに「音づくり」を噛ませ、日本語単語と英単語の「並列状態」から抜け出してもらい、イメージからイメージをたどる意識状態を作り、イメージからイメージをたどることが高速化すれば、英語はしゃべれるようになる。目を右から左へ動かさないでも読めるようになる。聴き取れるようにもなる。
 これが Piggy さんに起こったことである。

 要諦はやはりイメージの動態なのである。意識が日本語を抜け出すことなのである。

 もう一度、Piggy さんの文章を引用する。

>何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことでしょうか。

 「言いながら書きながら思う」は、単語単位でやる練習である。肝心なことは「思う」の実質にある。

 イメージ化は、実は単語単位にとどまらない。
 文に内在する語法(文法)でも、文法的な説明を理解しただけのレベルにとどめておいたら使い物にならない。(入試では目を右から左に動かして理解するのでもいいので、使い物になる。)

 語法にもイメージというものがある。
 進行形には進行形の、受動態には受動態のイメージがある。

 「習うより慣れろ」という言い方があるが、これは語法のイメージが意識に生じるのを「瞬時化しろ」と言っているのである。「瞬時化」し、さらに「無意識化しろ」と言っているのだ。
 7語から10語でできている文を、文法用語を思うこともなく、英単語に対応する日本語単語を思うこともなく、何を言っている文かが読めるなら、単語に関しても、語法に関しても、「瞬時化」はできており、もしかすれば「無意識化」もされている。

 基礎工事は「言いながら書きながら思う」だが、レッスンの「音づくり=インプット」も大きく働く。

 「無意識化」されたものが蓄積されて、「イメージからイメージをたどる」ということが可能になる。
 その時は、イメージはイメージだとは感じられないものになっている。イメージよりももっと軽いもの=イデアが動くようになる。




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