2015/04/13

レッスンの空き時間に

 今日、最初のレッスンの生徒(小学4年生)に、「はっきり動かす力をゆるめない」と言った。「はっきり」も「ゆるめない」も普段から言っていることだが、「はっきり動かす力をゆるめない」という一連の指示が新しいもののように感じだ。なんでだろうと思ったが、指示法として完成した形がひとつ穫れたからではないか。

 これが、日本人が英語の音を身につけるときの最重要なポイントだと今では私は確信している。そして、このポイントに焦点を合わせた訓練が行われているところがほとんどないことに、いまさらながらびっくりしている。

 日本人が英語を発音すると喉に頼る発声になり、口の動きが作る音はとても「平べったい」ものになる。

 これまでの発音法は、日本語で育った人の「平べったい」口の動きに手を付けることができず、ほとんどすべてが「Repeat after me.」でしかなかった。CD付きの学習用の本もそうだし、英会話学校の外人教師もそうだ。要は、「Repeat after me.」でしかない。

 個々の音を扱う発音練習は一部で行われている。母音、子音の一つずつを無機的に個々に扱う練習である。やらないよりはやった方がましだが、この練習では文を「まるごとで一つ」として扱う発音は扱えない。つまり、音のぶつかり合いの処理が扱えないから、個々の音を扱う練習だけやった生徒は、文の中で弱形になる子音や母音の処理ができず、英語の文を読むと機械が発音したようになる。

 あくまでも文を「まるごとで一つ」として音を扱うこと。その時にぶつかり合うのは、英語の子音と子音だけではない。母音を大量に含んだ日本語の音に慣れきった日本人の口の筋肉の動きの「平べったさ」と、ことさらに立体的な(と日本人には感じられる)英語による口の動きがぶつかり合うのである。

 個々の音の訓練はあくまでも大事でありおろそかにすることはできない。
 しかし、個々の音にだけ注目していて、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いに注目できないできたこれまでの発音指導法は、重大な側面をごっそりと欠いているのである。

 そこに差し込まれた一本のメス。それが、自分の中から出てきたものであるにもかかわらず自分に新鮮なものに思われた「はっきり動かす力をゆるめない」である。

 これは、自学自習ではまず欠け落ちるだろう。

 今のところ、大学の英語科教員養成課程の「英語音声学」は、アメリカの音声学の引き写しをやっているだけで、日本人の日本語で育った口の動きを前提にし、その動きと英語で育った人の口の動きをきちんと比較研究したものではない。だから、英語科の教員に「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを問題意識として持っている者は皆無に近い。

 音のことだけ考えてみた場合、日本人の「使えない英語」の根はここにあるのだと思われる。

 逆に、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを乗り越えた人のことを考えてみればわかる。その人には、学校に放置された人と較べたら、較べものにならないくらいのインプット力が備わる。
 絶えず文まるごとを一つとして扱う音の扱い方に習熟してしまえば、それはそのままインプット力になる。
 一つの文の音が安定しているということは、同じ文をまともな音で同じ調子でいくらでも繰り返せるということである。それが成立すれば、文が体にインプットされたということである。

 私が昔から言ってきた「音づくり=インプット」の成立とはそのことである。

 子供が本当にやっておくべき練習がどんなものなのかをわかっている親は非常に少ない。外人教師のいる教室に通わせるような安直なことで、子供にまともな英語が身につくことはない。
 子供が生きる日常の言語が日本語であるという条件の下では、英語は種の状態で身に付けるべきだ。いい種を大量に用意しておき、英語の「磁場」でいっせいに発芽させるべきなのである。
 「芽を出させてはいけない」と以前から言ってきた。
 芽を出させると、ひよわなもやしみたいな英語ができる。
 そんなものにエネルギーを取られると、子供の日本語が逆にもやし化していく。

 「芽を出させてはいけない」。
 英語は「種のまま持たせる」。
 ただし、学校英語や受験英語が作り出す「しいな」では駄目だ。
 「音づくり=インプット」でしか、いい種はできない。

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