2014/07/27

元にあるのは「言いながら書きながら思う」こと



>私が「音読のおかげだ」と飛び跳ねるぐらいの嬉しさで実感したのは、中3の時期でした。このころは受験シーズンなわけで、様々な長文を読み始めるのですが、ある日の授業で突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになったのです!自分でも驚きました。「あ!読めてる!分かる!本当に!?」って。この時の気持ちは今でも全く忘れていません。そのときしみじみと「音読だ!」と感じました。



 先日、上に引用した部分を含むKの記事を掲載した。これをもとにコメントしてみたい。

 私はよく「トンネルに入る」とか「トンネルを抜けた」という言い方をするが、「突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになった」というのは、一つの「トンネルを抜けた」状態なのである。
 Kはよく練習した生徒だが、この「トンネルを抜けた」状態になるのに丸3年はかかっている。その3年の間に起こっていたことは何なのか、蓄積されたものは何なのかということを言い当てられれば一つの語学論になる。

 「言いながら書きながら思う」という練習方法を私は生徒に奨めてきた。
 これは単語単位でやる練習である。
 この時扱う英単語は、「口を大きめに使って引き締める」とか「口の動きを浅くしないでつなげる」ということを踏まえて、「音づくり」が完成した文に含まれる英単語がいい。

 ひとつの単語を相手に「言いながら書きながら思う」ということをする。この場合の「言いながら」は「口を大きめに使って引き締める」とか「口の動きを浅くしないでつなげる」というようなことには気を使わなくてよい。舌の位置、唇の開き加減など、口の動きが確保されていればよい。小声でぼそぼそ「言いながら」でも構わない。その単語を含む文全体の音づくりは仕上げてあるので、小声で言うので構わない。

 書く速度は、言う速度よりかなり遅くなるから、「書きながら」によって、口の動きは制約される。口の動きは手がスペリングを書くスピードに従うので、かなりゆっくりしたものになる。手はすばやく動いているが、口の動きはゆっくりしたものに感じられる。それで構わないから、「言いながら」と「書きながら」を同時化させる。

 「言いながら書きながら思う」という時の、「思う」についてが一番説明しにくい。この単語は「こういう感じ」だという感じをしっかりと持つこと。「こういうことだ」というときの「こういうこと」を狙いを定めるようにイメージすること。

 「こういう感じ」と「こういうこと」という二つのものを、煮詰めて一つのものにする。それが「言いながら書きながら思う」の「思う」である。

 この時に、英単語のイメージが作られると同時に、英単語と日本語単語の「並列状態」から意識が抜け出す。イメージが明確になると、英単語は具体的な日本語単語を脱ぎ捨てて、イメージと一体化する。
 日本語単語は不要になり、イメージと英単語が合体した状態ができる。

 しかし、まだその元がある。

 「言いながら」という口の動き、「書きながら」という手の動きの中に、イメージを溶かし込むようにする。うまく溶かし込めれば、口の動きから生じる音とイメージが一体化したように感じられる。音とイメージが溶け合った一つのものと感じられるようになる。
 「言いながら書きながら思う」を激化すれば、同じように、手の動きから生じるスペリングの全体とイメージが一体化したように感じられるようになる。スペリングがそのままその単語のイメージとして感じられるようになる。

 強引な話である。しかし、それが語学なのである。

 「言いながら書きながら思う」ことで、「音とイメージ」、「スペリングとイメージ」という二つのものが溶け合い、一つのイメージが独在するように感じられるようになる。

 イメージが音やスペリングという手足を持つような状態になる。

 音やスペリングというより、口の動き、手首の動きと言った方がいい。イメージという体があり、それが口や手首の動きを備えている状態になる。イメージが本体になるのである。
 
 「言いながら」も「書きながら」も初めは、音の内側、スペリングの内側にもぐりこみ、体になじませるための行為である。体によくなじませておいて、体の動きとイメージを合体させる。さらにイメージを純化させたり、強化させたりすると、イメージが本体となり、イメージが口の動きや手首の動きという手足を備えた状態になる。

 体の動きと合体し連動するイメージを作り出さないと、日本在住のままで、使える英語の基を作ることはできない。

 (「言いながら書きながら思う」だけでなく、Kが書いているように「様々な長文を読み始める」ことで、英単語のイメージは純化され強化されていく。同一の単語が別の文に使われるとき、同じ単語が少し違う表情を浮かべる。その違いを感じとることを繰り返すことによって、その単語のイメージの核がしっかりしたものになっていく。)

 人はいろいろなやり方があると思っている。いろいろなやり方と見えるものは、表面的な違いにすぎない。実はいろいろなやり方などというものはない。イメージを作り出すことと、作り出したイメージを音やスペリングと合体させるというやり方しかありはしない。それさえ本当に実現されれば、外見はどんなやり方だって構わないというだけのことである。

 私の「言いながら書きながら思う」という練習方法は、エッセンスをそのまま練習方法の名前にしたというだけのことである。

 Kも「言いながら書きながら思う」という練習の厚みを持ったのである。その発展形としての「電圧装置」というやり方があるが、Kに「電圧装置」をやれと言ったことはなかったと思う。Kが作った厚みは、「言いながら書きながら思う」ことの厚みだったはずだ。

 その厚みが一定のレベルに達したときに、「ある日の授業で突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになった」ということが訪れたのである。

 Kは、「すらすら読みながら意味をとれる」と書いているが、これは、目を左から右に動かす動きで意味がとれるということを言っている。

 一般的な英語学習者にこれが実現している人はきわめて少ない。当然、英語は使えるようにはならない。左から右に向かって読み、わからなくなって右から左に視線を逆戻りさせ、また左から右に、再度右から左にというように、「右から左に」を混在させたような読み方が多くの日本人の英語の読み方である。この読み方から抜けられない人は、意識が英単語と日本語単語の「並列状態」であり、日本語単語を呼び出さないと英語の文の脈絡がつかめないのである。これを抜け出さないと「使える英語」は絶対に手に入らない。

 Kが「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」と言っている喜びは、英単語と日本語単語の「並列状態」を抜け出た喜びなのだ。英単語と日本語単語をごちゃごちゃさせる読み方とは違うレベルの読み方が生じた喜びなのだ。

 Kが書いたものは、イメージからイメージをたどる読み方の誕生を告げている。それが「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」だったのである。

 これは、英単語がイメージ化された状態でなければ起こらないことだ。

 Kにこれが起こったのは、Kが私の言うことの眼目をつかみ、それを実際に激しくやったからだ。それによって、「トンネルを抜けた」からだ。

 眼目をつかむこと。
 それこそが、語学論の萌芽のようなものだ。

 量の問題もある。英単語がイメージと化した量がどれくらいあるかということである。英単語が「イメージとして」どれくらいインプットされているかも、「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」が生まれるかどうかを決める。

 英単語と日本語単語の並列状態ではなく、英単語がイメージと一体化され、日本語単語を必要としなくなった状態が、必要な質である。その質でどれだけの量が蓄積されるかなのだ。それも「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」が生まれるかどうかを決める。

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