2020/10/06

mとn

  swim の m を n で発音してしまう生徒がいて、直すのに苦労している。直しても、すぐに逆戻りさせ、Do you swin? と発音してしまう。  これは日本語の「ん」のせいなのだろうか。  「ん」は英語音の方から見れば、m の場合も n の場合もある。  「さんま」の 「ん」は m であり、「そんな」の「ん」は n である。  「さんま」の m は、次の「ま」で m音を使うから現れる。  「そんな」の n は、次の「な」で n音を使うから現れる。  Do you swim? を Do you swin? としてしまうときに、次に n音を使うのではないのだから、なぜだかわからない。こういうときは、本質を言うほかはない。m は唇を閉じる音、n は唇を開く音、と本質を言う。それを言っても、生徒は m を n で代用してしまうから、レッスンが終わってから一人で練習してくれと言うしかない。  次のレッスンでも、m を n で代用することがあれば、同じことを言うしかない。  m を見たら唇を閉じる「感覚」、n を見たら唇を開いた「感覚」にしないから、要するに「感覚」にしないから、m を n で代用することに逆戻りさせてしまうのだが、これは、レッスンで同じ文を繰り返させるせいかもしれない。  Do you swim? を繰り返させると、swim の m の次に Do の d音が来る。d音は、舌を上の歯茎の裏に当てる必要があり、その動きは n音と共通するからだ。  私のレッスンでは、単に繰り返しを要求するだけではなく、繰り返しの「激化」を要求する。  語学に繰り返しは必要かと問えば、誰でも「必要だ」と答えるだろう。  しかし、この「激化」を納得して実際にやる生徒は少ない。  だけど、「激化」をやらないと、リエゾンはわかっても、「黙音」の本質はわからないのではないか。これは、日本人の英語が英語のリズムを獲得すべきか、すべきではないのかという問題である。語学をやるんなら、すべきじゃないのかと語学屋は考える。  しかし、ぶあつい抵抗がある。日本語で育った日本人の体が抵抗する。  どうも日本人は英語が嫌いだ。  この「嫌い」は、英語への「あこがれ」と、どうやら表裏一体のものらしい。  m と n の違いを厳格にやる私のレッスンはもうじき終わるだろう。  日本人はそれをあんまり本気にしないから。

2019/12/19

学校は英語から手を引くがいい


学校は英語から手を引くがいい


 素読舎のレッスンでは、英文まるごとの部分は、一息で何度もその英文を繰り返す。
 練習の初期では、それぞれの生徒の地声で読むのを肯定するが、そうすると喉で声を張り上げた読みが現れてくる。日本語の音は「子音+母音」でできており、母音は喉を鳴らす音なので、日本語をしゃべるときはいつも喉が鳴っている。日本人にとってはそれが自然であり、そんなことをいちいち意識している人はいない。しかし、それが体にしみついている人(日本語で育った人)は、英文を繰り返し読むと、日本語を「朗読」するように、喉を鳴らし、声を張り上げるような読み方になる。
 少し練習が進んだ頃、「声の張り上げ」、「喉の鳴らし過ぎ」を注意するようになる。
英語には、まったく喉を使わない音が絶えず混ざることを言う。これについては、すぐ理解できなくてもかまわない。まったく喉を使わない音がうまく出るようになれば、納得できるようになる。まったく喉を使わない音とは、「澄んだ子音」と呼ばれているもので、s, t, f, などがそうだが、これらはくっついた口の部位が急激に離れる破裂音とか、狭いすきまを強引に息が通る擦過音とか、破裂と擦過が連続する破擦音とかであり、はっきり発音するには強い息が必要である。
 これに対して、日本語をはっきり発音しようとしても、英語ほど強い息は必要がない。これが、英語と日本語の発音が根底から違うところなのである。
 「声の張り上げ」、「喉の鳴らし過ぎ」を注意しはじめたら、それを直すには、強い息を口の動きにぶつけることが必要だという。

 個々の音は、生徒が間違えるたびにその場で直す。学校や塾では、それすらもやらないことが多い。これはまったくの手抜きであり、使えない日本の英語の再生産を繰り返すだけになる。現に多くの学校の教室がそういう場所になっている。個々の音を直すことすらやらないのだから、「声の張り上げ」、「喉の鳴らし過ぎ」を直し、発音の軸を喉から、「口の動き+息の勢い」に移行させることなどやっているところはない。しかし、これをやらないとはっきりした子音が作れず、日本人の英語は音だけに限っても、「わかりにくい」ことから抜けられない。
 個々の音以前に、あるいは個々の音を直すと同時進行で、喉から口(息)へ軸を移すことをやりはじめたら、生徒の数は急激に減った。
 日本人の英語の発音で最大の問題点をみつけたぞと思ってレッスンに取り入れたのだが、そんなところに肝心の問題があると思っている人はほとんど皆無であるということがわかった。日本の学校英語が、長いこと日本人をだましてきたのである。発音上の、英語と日本語の根底的な違いを言葉にすることをずっと放置してきたのである。学校の先生で、日本人の英語がはっきりしない原因が、喉に頼り過ぎることにあることを理解している人はほとんど皆無である。
 素読舎の英語発音法の開発における頂点がそこにある。開発の歴史においては頂点であるが、レッスンに取り入れた場合は、初めて英語をやる初心者にこそ必要なものである。学校英語が普通だと思ってしまった個人の英語学習歴が長いほど、フライパンの焦げ付きがひどい。たとえ話だが、新しい卵焼きを焼こうとしても、まずフライパンの焦げを落とすことから始めなければならなくなる。場合によっては、焦げを落とすだけで二年も三年もかかる。
 喉に頼る発音法を直す観点からすれば、あれもこれも、学校も塾も英会話学校も全部駄目である。以前は個々の音をちゃんと直すことすらしないことについて、あれもこれも全部駄目だと言ってきたが、喉に頼る発音(喉に軸がある発音)については、まったくの手付かずのまま放置されてきたのである。こんなことに口を酸っぱくしても、まったく無駄なのだろうかと思いながら、なおも口が酸っぱくなる。
 そんなことを言い続けなければならない理由は、素読舎が本当に作ろうとしているものが、英語力そのものというより、練習力だからだろう。練習力さえ本物なら、その後どれだけやるかは本人まかせでいい。音をいいかげんに扱った場合は、その練習力自体が育たなくなる。練習力も練習そのものも育たなくなる。
 まともな音で練習するのでなければ、本当は語学の練習とは言えない。
 そのことを本気で考える人があまりにも少なすぎる。

2019/11/27

あいうえおフォニックス

...「あいうえおフォニックス」

 r 音はくせものである。
 r 音の舌の位置は、純然たる子音の場合は、舌が喉のほうに引っ張られるが、母音と溶け合った音では喉のほうに引っ張られることはなく、舌が口の中で持ち上がるだけである。後者では、舌が口の中で持ち上がって、「狭い音」の狭さを作る。
 r 音は普通、子音だとされているが、 [逆さe] と溶け合って、日本人の耳には「アー」と聞こえる。その音は英語にはしょっちゅう現れる。だから、この音を間違えていると、しょっちゅう間違えて英語を口にしていることになる。
 [逆さe] と溶け合って「アー」と聞こえる音を、日本語の「アー」で発音すると誤解されたり、通じなかったりする。英語ネイティヴの人の中には、この日本語の「アー」で代用させる発音にはっきりといらつきを見せる人もいる。例えば、curd と card が同じ発音になってしまうからだ。
 信州中野に世話をしてくださる人がいて、小学生を集めるから英語の教室をやってほしいと言われ、村の神社の社寮という建物をお借りし、週に一回、数年通ったことがある。
 girl, birthday の ir やら、Thursday, turn の ur やら、子供たちはみな、日本語の「アー」で言ってしまう。certain の er なんかもそうだ。word, world なんかもそうだと、この順番に語を思い浮かべたわけではないが、「これ、みんな、『母音+r』 だ」と思った。しかし、party, art などの ar は「母音+r」だが、まったく違う音、「顎の下がる明るいアー」になる。
 しかし待てよ、と思った。dollar の ar にはアクセントがない。アクセントの有無で、ar が分類できるのではないか。アクセントのない ar は、ir, ur, er, or の仲間になると分類できるのではないか。
 アクセントのある ar は別格であり、まったく違う音になる。「顎の下がる明るいアー」。
 ar をアクセントの有無で分類し、ear も ea で一つの母音と考え「母音+r」の仲間とする。そうすれば、例外のほとんどない法則ができてしまうではないか!!!

 英語音声学の学者が何を言うのかは知らない。
 どうせ彼らはアメリカの音声学の真似事しかしていない。
 日本語で育った口の動きを元に自前で何かを作ったことなどありはしないのだ。
 アメリカの音声学の真似事を大学の英語教員養成過程なんかで講義したところで、日本語で育った人向けのコーチ法になるわけがない。

 「あいうえおフォニックス」は、日本の神社に付属する建物で生まれたものである。
 早速、レッスンで使ってみた。これは役に立つとすぐにわかった。生徒たちには、「例外があるかもしれないから、一応辞書で確認した方がいい」と言うが、今のところ、中学生や高校生が目にする単語で、見つかった例外は heart くらいである。大学生でもほとんどの人が知らない単語で、hearth くらいである。辞書を引く前に見当をつけて引いてみれば、ほとんどがドンピシャと当たる。

 ただし、この法則が当てはまるのは、「母音+r」が、日本人の耳に「アー」と聞こえるものに関してであるという前提がある。

 order, corner などの or を持ち出して、「母音+r」だが [逆さe] の延びた音ではないではないかと言った人がいた。「あいうえおフォニックス」は、「母音+r」が、日本人の耳に「アー」と聞こえるものに関する法則だと何度言っても、頭が混乱していたせいか、承知できないと言った。
 order, corner の or はあんたの耳にだって 「アー」と聞こえるわけじゃないだろ? どうしたって「オー」と聞こえるだろ? 俺が言ってる法則は「アー」と聞こえるものに関するものなんだ。それはどの生徒にも最初に断って使っている。word, work, world の or は「アー」と聞こえるだろうと言ったら黙ってしまった。
 なにがなんでも、私がみつけた法則にケチをつけたかったらしい。

 ここのところを「交通整理」した人がいなかったせいで、これまで日本人は英語の「ア系列」の音にどれほど苦しめられてきたかわからない。通じないことや誤解を招くことで苦しめられたのだ。

 この法則は、誰にも公開されているが、使うときは一応、根石吉久という人がみつけたものだとクレジットを添えて欲しいと思うので、今日の日付を書き添える。2019/11/27。この日付以後に、「あいうえおフォニックス」と同じことを人に教えた場合は、その人が自分でみつけた法則ではない。

 [逆さe](とその延びた音)、「一瞬般若」、「顎の下がる明るいアー」の3つを言い分けられるようになり、th, f, r, l などいくつかの子音を日本語の類似音でなく言えれば、日本人の英語の音は、インドやタイなどの町で拾った英語音よりずっといい音になる。それをわきまえなければ、インド・タイ以下になりかねない。

 それとは別に、表面的にネイティヴを真似た「それっぽい音」は、実は英語ネイティヴの人たちは軽蔑していることが多い。

 レッスンでは、綴りの中の「母音+r」に普段から注目するように言う。
 ear も「母音+r」だと伝える。
 ar だけは気をつけるように。アクセントがあるのとないのとでは大違い、と言う。
 アクセントのある ar は「顎の下がる明るいアー」。アクセントがなければ、ir, ur, er, or, ear などの仲間で、「狭いアー」つまり、[逆さe] の延びた音、と言う。

 綴りの中の「母音+r」に普段から注目させ、かなり慣れてきた生徒に「あいうえおフォニックス」を伝える。これを伝える場合は生徒にすんなり了解できるようにするための順序があるが、それはここに書かない。実際のレッスンによって、練習の厚みができた時にだけ有効になるものだからである。
 これまで、その順序まで含めてあちこちに書いたが、「母音+r」で音を間違える人だらけの日本の英語状況なのに、まともに受け取ろうとする人がほとんどいなかった。(英語の教員たちはアキメクラばっかしなのか?)
 その音が違うとはっきり言うレッスンと、自分を開き新しい知識を身体化する生徒がいる場所でなければ、知識は知識のままにとどまってしまう。そればかりではない。まともな練習の厚みがない人には、知識が混乱を招くということもある。だから、レッスンを受けてくれる人にだけ「その順序」で伝えることにした。
 この「あいうえおフォニックス」を自在に駆使できるようになれば、日本人の英語音はまるで違ったもの(通用するもの)になるのは、これまでの生徒の音の変化で立証されている。説明の順序は練習の厚みができた生徒とコーチをする人以外には意味がない。

 生徒の中に、大学の先生の奥さんがいて、旦那さんがアメリカで昆虫の研究をするので
、アメリカに数年暮らした人がいた。日本に帰ってきて、ある日電車の中でアメリカ人に話しかけられ、降りる予定の駅はいくつめの駅かと聞かれた後、少し他の話もしたと言っていた。そのアメリカ人は、「あなたの英語の音は非常にいい。これまで日本人と話しても、変な音の人ばかりだったが、あなたの音はいい。アメリカ人に習ったのか」と言った。私の生徒は、「いいえ。日本に暮らしている日本人の先生に習いました」と言ったら、アメリカ人は目を丸くして驚いていたそうだ。この生徒の音が大きく変わったところには、「あいうえおフォニックス」が働いたのだ。小川住江さんの言う「磁場帰り」の人にも、「あいうえおフォニックス」が眼目だったのである。

 余談だが、この生徒は文学が好きで、アメリカにいる間アメリカの現代文学をペーパーバックスで読みまくったそうだ。視線の方向を逆もどりさせず、左から右へ動かすだけで、どんどん読んだそうだ。それを可能にしたのは「磁場」の作用であるが、日本に帰ってきて英語の「磁場」を失ったら、一年後には、視線が英文をたどる方向を逆もどりさせないと読めなくなっていたと言っていた。
 私のレッスンを受け始めて、一年以上経った頃、「根石さん、私、アメリカにいた頃と同じように読めるようになってるよ。不思議だね」と言った。
 西友に行くと、「みなさまのお墨付き」と印刷してある商品が売っているが、私のレッスンは、「アメリカ人のお墨付き」であり、「磁場帰り」の人からは、「不思議だね」と思われるものなのである。日本の神社育ちの英語教育法だからなのか。

 「あいうえおフォニックス」について記事に書くことというのは、所詮、知識の羅列にすぎない。それでも、もしかすれば役に立てる人がいるかもしれないと思い掲載する。

2019/09/21

FaceBook の「英語 素読舎」に掲載したもののペースト

生徒さんに録音ファイルを、メール添付かLINEの記事添付で送ってもらい、「録音ファイルチェック」を行い、掲示板にコメントを書いている。ある程度口の動きができてきた生徒に向けたコメントを以下に掲載する。これを読むだけで、素読舎が英語用にどんな口の動きを作ろうとしているのか、わかる人にはわかる。

・・・・・
火曜22:10 Kさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2019年 9月21日(土)14時40分19秒 返信・引用

The table was laden with maps, charts, and books.

ふた息目の後半にあきらかな音のゆるみがあります。
「つなげる」と「口の動きの立体性」は相互に邪魔しあうものです。
今の段階では、単なる「つなげる」を越えて、compact な鷲づかみを成り立たせるべきです。

We are breeding that animal for research and conservation.

OK

Write the operation on a separate sheet of paper.

write the の音のつながりで、write の最後の t 音は、本来の位置でなく、次の th にきわめて近い位置、つまり、「上の歯の先の裏」あたりで「黙った音」になり、次の th も弱い音になります。黙音と弱形のつながりができておらず、t 音にしてしまっています。

I'm working as a programmer in a computer company.

口の動きの立体性が弱く、その分、喉の音が出てきています。喉の音を張り上げるほどではないので、以前よりはずっとよくなっていますが、立体的な口の動きにもっと息をぶつけてください。口の動きの引き締めも足りません。

2019/09/17

190917
英語でしゃべるということ
 長年英語の塾をやってきて思うのは、日本人一般に英語でしゃべりたいという欲求があるということだった。一部に、英語でしゃべるなんてまっぴら御免だという人もいるが、英語でしゃべりたいという欲求が広く一般にあると感じてきた。なんとなくの英会話熱みたいなものである。普段の生活の中で、英語でしゃべれないと困るということはほとんどないのではないかと思われる人たちの中にも、英語でしゃべりたいという欲求は広く流れているように思う。
 これは何なのだろうと考えるようになった。
 私は、日本に日本語をしゃべる者として生活していて、ほとんど英語でしゃべる必要を感じないが、外国の会社と取引をしたりする人たちはそうではないのだろう。そういう人たちは切実に英語でしゃべる必要を感じているだろう。英語でしゃべりたいという広く行き渡った欲求の震源地は、そういう人たちなのだろうということは見当がつく。
 日本で日本語だけで生活しながら、英語をしゃべるようになるのは、結構大変なことだ。至難のわざだとまでは言わないが、人々が一般に想像しているのとはまるで違うレベルの練習をしなければならないのは確かなことだ。その要点は、知識を知識のままにしておかず、片っ端からイメージ化することだが、それについては後回しにする。
 日本で日本語だけで生活しながら英語の練習をすることと、アメリカなり、カナダなり、イギリスなり、オーストラリアなり、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることとは、まったく別の種類の経験だが、それがまったく別のことなのだということが認識として一般的なものになっていない。
 経団連などからの圧力は、学校はすぐに(会社の)実戦力になる英語力を作れということであるが、すぐに実戦力になる英語などというものが、日本語で生活することの中から生まれてくるはずはないし、日本人が日本語による生活を英語による生活と入れ替えることなどできるはずがないということを無視した妄想にすぎない。
 日本でできることは、語学力を鍛えるということに尽きる。その語学力を(会社の)実戦力として使いたければ、経団連などに属する会社が自分で金を出して、社員たちを外国に住まわせる期間をもうけるがいいのである。その期間の後半では、仕事の場で場数を踏ませるようなことも必要になるだろう。その場合に、もっとも有効なものは、英語の磁場ではなく、日本で日本語で生活した者の「いっぱしの語学力」以外のものではない。うちの会社はグローバル企業でやっていくのだから、日本で日本語で生活した者でなくてもかまわないのだというのなら、うちの会社には日本語は必要ないのだと言うことと同じであるから、日本人を社員としようなどと考えなければいい。最初からアメリカ人でもイギリス人でも新入社員として採用すればいい。それでは、経営の中枢と現場との意思の疎通がとれないなどと馬鹿なことを言い出すのだろうか。経営の中枢が英語をやるがいいのだ。中枢だけが日本語による思考を温存して、あるいは日本語に翻訳されたグローバル化理論を読み、現場には生の英語の荒波をくぐれと命令する根性なのだろうか。
 読む能力、書く能力と切り離して、日本人の中に広く流れている「英語でしゃべりたい」という欲求だけを取り出すなら、日本で日本語だけで生活しているのは、まったく不利なことであり、英語圏に渡って英語で生活することは、まったく有利なことである。
 日本語がぼろぼろじゃないかというような問題を噴出させたが、「英語でしゃべる」ということだけに目を注ぐのでよければ、英語で生活することがまったく有利であることは、帰国子女たちがはっきりさせた。日本語がぼろぼろじゃないかという問題は、誰よりも個々の帰国子女たちの切実な問題であるが、会社などというものの都合だけを云々する側からは、それはほとんど問題にされていない。
 私は、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることは、語学とははっきりと区別すべきだとさえ考えている。このことを、語学をいくらやっても、語学の成果がどれほど高度なものになっても、「磁場」は手に入らないという言い方で言ってきた。「磁場」だけがもたらすものが絶対にあるとも言ってきた。「語学論」と名づけて、主にそのことをめぐって、掲示板などで意見を戦わせたこともある。そして、わかる人には一発でわかることなのだが、多くの場合、変なことを言う人だとして扱われた。おそらく、いまでも同じことが起こると思われるが、私一人のことを言えば、すっかり疲れてしまって、人と意見をぶつけ合うようなことをやる気力はない。
 近頃では、ほとんど「語学論」を書くようなこともなくなっていたが、それでも言いかけたことを最後まで言っていないという思いはする。
 脳梗塞をやったことと関係があるのかないのか、考えが切れ切れで、一定の時間集中して考えるということができなくなっている自覚がある。こうなれば、切れ切れのまま、書いてみるしかないだろうという考えもある。それで、少し書いてみたが、続くかどうかは心もとない。

2019/02/18




 素読を知るためのネット塾
   (「ことば塾」のお知らせ)



 長野県千曲市にある素読舎は、素読について考えてきた塾です。
 素読を原理とする練習法を編み、語学に応用し、英語を長年扱ってきました。
 初めは、高校入試・大学入試用の塾でしたが、実際に仕事で英語を必要とする社会人の方々も使う塾になりました。
 最近、地元の書店に行き、昔から世話になっている店主と話しているときに、店主は「今の子供たちの言葉の力がひどく弱体化している」と嘆きました。その嘆きは、英語の塾をやってきて私が感じていたことと同じものでした。「日本語がこの状態で、英語どころではない」と思ったことが何度もあります。
 店主は「国語力」が駄目になっているのだと言っていましたが、私は「国語力」という言葉では考えていません。国語力というと、テストの国語の問題で点がとれる力のことと思ってしまう人が多いでしょう。もちろん、その意味での「国語力」と「言葉の力」とは重なる部分がありますが、書店の店主が言いたいことも、私が感じつづけてきたものも、端的に「言葉の力」と呼ぶ方がいいと考え、「ことば塾」という名称を思いました。この名称でネット上で塾をやってみようかと思ったということです。まずは数人の生徒を募集してみようかと考えています。

 素読舎の名前でやってきた英語の塾は、これまで通り有料の塾として継続するとして、新たに枝を生やす塾=「ことば塾」は、生徒さん側から、素読舎側から、という双方からの「喜捨」でやりたいと思いました。詳細は後で説明いたします。

 素読は論語などの言葉を身体化するために、江戸時代にさかんに使われた学習方法です。学校制度ができた明治時代以降、かなり弱体化しました。昭和の前半では、子供に歴代天皇の名前を暗誦させるときに、「素読を原理とする方法」が学校で使われました。学校の教室ですから、実際は斉唱だったでしょう。しかし、これも原理は素読にあります。太平洋戦争の後は、アメリカ軍が日本の封建制に発するものに目を光らせたせいか、戦後民主主義の人たちが英米に手放しであこがれたせいかわかりませんが、素読は古い駄目なものとして、歴史のゴミ箱に捨てられました。
 江戸幕府の体制を強化するために素読が使われたり、天皇の名前を子供の体に叩き込むことに使われたりした歴史が確かにあります。どちらも体制強化のために使われたので、戦後は素読そのものが悪者扱いされました。政治を離れて見れば、学習法としての素読そのものが悪いものであるはずはないのですが、素読はゴミ箱行きの悪者として扱われたのです。
 素読を政治から引き剥がし、学習法として、人々の手に奪いかえすことはできないのかという考えは、私が大学を卒業してから始めた塾に「素読舎」という名を冠したときからありました。それから五十年近く経ちますが、政治から「独立」させても、素読は十分に有効であり、学習法として威力を持つことを知ることができました。数学の計算練習などに素読は使えませんが、その他の教科には広く使うことができます。あらゆる教科が「ことば」の上に成り立っているものだからです。
 素読を語学の学習法として生かす方法を探究してきた塾が「素読舎」です。
 書店主と話してから考えたことは、いったん語学を離れて、まずは小学校の教科を扱うことで、「ことばの力」そのものを強めることを主眼とした塾を始めることでした。募集できる生徒数は多くありませんが始めたいと思います。

「ことば塾」運営方法は以下のようになります。

レッスン日・時間帯  週一回三十分。(方法を伝えます。練習の主体は、
           普段の自習です。

媒体  インターネットにつながっているパソコン。
レッスン用媒体  電話、携帯電話、スマートフォン、スカイプ、ライン
         などのうち、どれか一つ。

対象  小学生

形態  一対一のレッスン
 
テキスト  全教科(各教科の素読による攻め方) 
      算数の計算は扱えません。文章題は扱えます。
      「ことば塾」で作成したテキスト。
      生徒側で持ち込むこともできます。
       (コピーまたは本を送っていただきます)

費用  随意(「ことば塾」への喜捨)

 (金額は「ことば塾」側で決めません。レッスンを使ってみて、生徒さんの家庭で決めていただけば結構です。経済的に余裕がない場合、出していただく必要はありません。出せるようになったら出していただくことで結構です。)

連絡先  090-4181-5912

 長野県千曲市鋳物師屋642-3
 素読舎・根石吉久

※ 書き漏らしたものがあるかもしれませんので、お気軽に上記電話番号にお問い合わせください。


2018/04/15

facebook , twitter 、繰り返しup 用

facebook , twitter 、繰り返しup 用

生徒募集中ですが、、、、、

 学校のテストの点、入試の点のためだけに、素読舎のレッスンを利用されることはご遠慮ください。学校を出てからも使い物になる英語を作るために、テストや受験を利用する人を歓迎します。テストや受験に飼われることと、使える英語を持つために、テストや受験を利用することとはまるで違うことです。

 素読舎のレッスンは「音作り」と「文法理解」を同時進行で進めます。音ができていない状態で、文法だけ進めるということは行いません。この点が、ほぼすべての学校や塾と違います。また、文法は理解したレベルにとどめておいでは駄目です。文法は絶えず使っている必要があります。素読舎の「入れ替え・変換」というレッスンでは、文法の説明をしますが、それを文の変形に使うということを絶えず行っています。

 素読舎の「音づくり」はそのままインプット力の養成です。インプットしたものがアウトプットに転じる「融点」を通過するところまで、レッスンの道筋が作られています。

 正確に読め、「語学的標準形」としてなめらかにいくらでも繰り返せるというレベルの読みが完成しただけでは、まだアウトプットで活用できる文ではありません。ここのところを何とかうまく言えないものかと何度も書いてきましたが、いまだ「圧縮」という言葉しか思いつきません。素読舎のレッスンの指示法で、「コンパクトへ」というものがありますが、これが「圧縮」をねらったものです。読みが圧縮されると、インプットがアウトプットに転じる融点のようなものが生じます。日本在住のままで英語でしゃべり出す人は、必ずこの融点を通ります。多くの場合、それが意識化されていないだけで、例外はありません。

 学校や塾の音の扱いでは、インプットされたものがアウトプットに使えません。学校は音が違っていても、それをほぼ放置します。音が違ったままでは、アウトプット時にすぐに障害になるのはわかりきったことです。また、ここで言う「融点」などを学校や塾が問題にできたためしはありません。やみくもな独学によって、「融点」を通過する人はいますが、ここを意識化した人はいません。

 素読舎の「文法理解」は、理解したものを知識にとどめてしまうことがありません。理解したものは瞬間的な感覚として働くようにならなければ、文法が英語使用(話す・聞く)に結びつくことはありません。

 テストの点に飼われた勉強では、理解したものが知識のレベルでとどまってしまいます。ペーパーテストの点を取るには有効であっても、英語使用(話す・聞く)には役にたたない知識です。知識は感覚化されなければなりません。